ジェラートの教科書 Il manuale del gelato
L3

Approfondimento — 章末入口

低温では香りが立たない — 揮発・分配・知覚

Il freddo e l'aroma

冷たさは、なぜ香りと甘味を鈍らせるのか。揮発・分配・知覚という三つの段階に分けて、その物理と生理を追う。深掘り11(技巧)と対をなす、科学の深掘りである。

入門編第6章と上級編第11章で、「冷たいと香りが立たない」という事実に繰り返し触れ、深掘り11ではそれを前提にペアリングを設計した。本稿はその前提そのものを掘り下げる。香りが弱くなるのは、一つの理由ではない。揮発・分配・知覚という三つの段階が、いずれも低温で香りに不利に働く。順に見ていく。

第一段階:揮発 — 気相へ出る分が減る

香りを担う揮発性の分子は、食品の上の空気(ヘッドスペース)へ放出されて初めて、鼻が検出できる。だから問うべきは「香気分子が液の中と空気の中に、どんな割合で分かれているか」である。この分かれ方を表す量を、分配係数という。

バニラの莢(Vanilla planifolia)のスポット挿絵。縦に裂いた莢と種子。

Coefficiente di ripartizione

KGL = cG / cL
cG=気相の香気濃度、cL=液相の香気濃度

KGL が大きいほど、香気は空気側に多く出ている——つまり、よく香る。ではこの値は何で決まるのか。分子が液の中に留まるか空気へ出るかは、結局エネルギーの損得で決まる。

Calcolo — 計算

KGL = exp( − ΔGGL / RT )  ただし ΔGGL = ΔGI − TΔSC

ここで綱引きしているのは二つの力である。配置エントロピー(ΔSC)は、分子が液の中に閉じこもるより系全体へ散らばることを好む——つねに揮発を後押しする側だ。対する分子間相互作用(ΔGI)は、香気分子が周囲の溶媒分子とファンデルワールス力や水素結合で結びつく利得を表し、気相にはその相手がいないから——揮発を引き止める側にまわる。

そして、この式のどこに温度が効くのかを、慎重に見ておきたい。エントロピーの項に見えるTは、効いていない。

分母のRTと約分されてしまうからである。式を開くとこうなる。

Calcolo — 計算

KGL = exp( − ΔGI / RT ) × exp( ΔSC / R )

右の因子——エントロピーの寄与——には、もうTがない。配置エントロピーは、温度が何度であろうと同じだけ揮発を後押しする。それは一定の下駄であって、坂ではない。

温度が効くのは、左の因子、つまり相互作用の項を通してである。香気分子が液から出ていくには、周囲の溶媒分子と結んでいた手を切らねばならない。その代価は、熱の運動エネルギーから支払われる。温度が下がれば支払える額が減り、手を切れる分子が減る。気相へ出られるのは、代価を払えた分子だけである。

そしてTは指数の分母にある。だから効きは緩やかではない。低温は「後押しを弱める」のではなく、「代価が払えなくする」——冷たいジェラートは、香りを立たせる最初の段階で、すでに大きく不利なのである。

気相へ出る香気の割合(KGL 温度 → −14℃:わずか 提供温度域 20℃:豊富 常温
Fig. L3-7-1 気相へ出る香気の割合(分配係数)は、温度が下がると指数関数的に小さくなる。提供温度域では、常温にくらべ空気中へ出る香気分子がはるかに少ない。

第二段階:分配 — マトリクスが香りを離さない

ここまでは「液」と「空気」の二つで話を進めてきた。だが実際のジェラートは、もっと入り組んでいる。エマルションの中で香気分子が分かれて存在しうる場所は、四つある——脂肪球の内部、それを取り巻く水相、脂肪と水の界面、そして上部の気相である。気相に出てくる分は、この四つの綱引きの結果として決まる。

なかでも効くのが、脂肪と水のどちらを好むかである。この好みを表すのが油水分配係数 KOW で、1より大きければ脂肪を好む(疎水性)、小さければ水を好む(極性)ことを意味する。

そして重要な帰結がある。疎水性の香気(KOW > 1)は、脂肪が増えるほど気相へ出てこなくなる。脂肪球という隠れ家に吸い込まれてしまうからだ。しかも分子が疎水的であるほどこの効きは鋭く、KOWけた違いに大きい香気なら、わずかな脂肪の増加だけで気相の香りが大きく落ちる。裏を返せば——脂肪を減らすほど、疎水性の香りは強く香るようになる

ここに、見落としやすい非対称がある。極性の香気(KOW < 1)は、脂肪が増えてもほとんど影響を受けない。水相に居続けるからである。つまり脂肪は、すべての香りを一律に抑えるのではない。脂肪に溶ける香りだけを選んで隠す。この選択性こそ、ベースを変えると香りの「構成」まで変わってしまう理由である(深掘り11・上級編第11章)。

香りを引き止める手は、脂肪だけではない。タンパク質や多糖類は香気分子と結合しうる。結合してしまった分は気相へ出られないので、結合が強ければヘッドスペースの香りは大きく減る。乳タンパクと安定剤を抱えたジェラートは、この意味でも香りを離しにくい。

さらにジェラートでは、水の多くが氷になっている。香気分子は残った少量の未凍結相に濃縮されるが、その相は低温で粘く、拡散も遅い(深掘り01・04)。

そして四つめの手がある。冒頭で数え上げた「界面」である。

脂肪と水の境目は、系全体の体積からすればごく薄い層にすぎない。それでも香気の行き先を大きく左右する——香気が薄いからこそ、そうなる。界面に貼りつける席の数は限られているが、食品の香料はもともとその席数よりずっと少ない量しか使われない。だから席は埋まりきらず、入れた香気のかなりの割合が界面に取られてしまう。界面に取られた分は、油にも水にも気相にも出てこない。

ここでジェラートに固有の事情が効く。均質化は、脂肪球を細かくする。球が小さくなれば、同じ脂肪量でも界面の総面積は増える——文献の見積もりでは、球の直径が10分の1になれば面積は10倍になる。面積が増えれば席が増え、界面に取られる香気も増える。だから細かく均質化するほど、香りは立ちにくくなる。

均質化は口あたりのためにも、部分合一のためにも(深掘り05)必要な工程である。その同じ操作が、香りには逆に働く。ここにも二律背反がある。

ただし、この効きには条件がある。水相に遊離の乳化剤が漂っていると、そちらが香気を捕まえてしまい、界面の効果は見えにくくなる。界面の席が空いていることが、この話の前提である。

気相へ出る力が弱いうえに、脂肪が隠し、タンパクが掴み、界面が留め、粘い相が動かさない——分配は、揮発の不利をさらに深める。

第三段階:知覚 — 二つの鼻の道

最後は、受け取る側の生理である。香りの知覚には二つの経路がある。鼻から直接かぐオルソネーザル(前鼻腔性)と、口に入れた食物の香りが喉から鼻へ抜けるレトロネーザル(後鼻腔性)である。

ショーケースやスプーンの上のジェラートは冷たく、オルソネーザルで感じる香りは、揮発と分配の不利によって弱い。ところが口に入れた瞬間、事情が変わる。ジェラートは体温で温められて溶けはじめ、それまで抑えられていた香気分子が一気に放出される。このレトロネーザルの香りこそ、ジェラートの風味の主戦場である。入門編第6章が「とろけるような口どけ」と「冷たさと、香りの関係」を並べて説いたのは、口中での加温がこの放出を引き起こすからにほかならない。だからこそ、香りの設計は「かいだときの香り」ではなく「食べたときに開く香り」を狙う必要がある。

さらに、低温は味覚そのものも鈍らせる。ただし、その鈍り方は単純ではない。

冷たさが甘味を弱めるのは、二つの別々の道筋による。 5〜10℃まで冷えると、甘味の強さそのものが下がる。それとは別に、21℃を下回るあたりから甘味への慣れが速くなる——最初の一口の強さは変わらなくても、続けて食べるうちに早く引いていく。強さと持続が、別々にやられるのである。なぜそうなるのかは、まだ一つの仕組みでは説明できていない。受容体の温度依存で説明しようとする仮説はあるが、それだけではこの二つを説明しきれないことが分かっている。

しかも、落ち方は糖によってまるで違う。 30℃から5℃へ冷やすと、スクロースは甘味の6割以上を失う。ところがフルクトースは2割ほどしか落ちない(上級編第2章)。「冷たいと甘味が鈍る」は、どの糖にも同じように効く話ではないのである。

そして、ここで本節の前半が効いてくる。口の中で温められるのは、香りだけではない。 ジェラートが溶けはじめれば、舌に触れている温度も上がっていく。抑えられていた甘味は、そこで戻ってくるのである。だから「冷たいと甘味が弱いのだから、糖を足して補おう」という考えは危うい——足した分は、溶けきったころに余韻として現れる。入門編第6章が「冷たい状態でちょうどいい」甘さと述べ、上級編第11章が「提供温度まで凍らせた状態」で最終判断を下せと念を押すのは、このためである。甘さは、食べるその温度で測るほかない。

オルソネーザル 鼻からかぐ 冷たい一杯 冷たさで弱い レトロネーザル 口中から抜ける 口中で加温 温まって開く(主戦場)
Fig. L3-7-2 香りの二つの経路。冷たいジェラートはオルソネーザル(かぐ香り)では弱いが、口中で温められるとレトロネーザル(抜ける香り)として開く。風味設計はこの後者を狙う。

余韻は、溶けきったあとに来る

三段階を追うと、ジェラートの余韻——飲みこんだあとに続く感覚——が、他の食品とは違う成り立ちを持つことが見えてくる。

通常の食品では、余韻は「口に入れたときの強さが、時間をかけて減衰していく尾」である。ところがジェラートでは、口中で温度が上がるという事情が加わる。冷たいうちは揮発も分配も知覚も抑えられていたものが、溶けるにつれて解放される。つまりジェラートの余韻は、減衰の尾であるだけでなく、あとから立ち上がってくるものでもある。

このねじれが、二つの帰結を生む。

第一に、甘さの設計は余韻で答え合わせされる。本節前半で見たとおり、冷たい状態の甘味は抑えられている。それを補うつもりで糖を足すと、足した分は食べている最中には現れず、口中の温度が上がりきったころ——つまり余韻として現れる。食べているあいだはちょうどよく、食べ終わってから重いという一杯は、この機序で生まれる。入門編第6章が「冷たい状態でちょうどいい」甘さと述べるのは、余韻まで含めた要求である。

第二に、低温は余韻を短くする方向にも働く。21℃を下回るあたりから甘味への順応が速くなるため、続けて食べるうちに感覚は早く引いていく。強さと持続が別々にやられるという先述の非対称は、そのまま「余韻の短さ」として現れる。したがって余韻の長い一杯を狙うなら、糖を足すのではなく、脂肪や固形分によって香気の放出を時間方向へ引き延ばす(分配の側で解く)ほうが筋が通る。

なお、余韻は後味とは区別しておきたい。後味は口に何が残るかであり、その代表が脂肪の残す薄い膜である——いわば「残るもの」。対して余韻は、香気と甘味が時間をかけて引いていく「続くもの」である。前者は量の問題、後者は時間の問題であって、対処も別になる。

三段階が、設計を決める

揮発が弱く、分配がマトリクスに偏り、知覚は冷たさに鈍る。この三重の不利が、ジェラートの風味設計を規定する。対処は、それぞれの段階に対応している。

こうして科学は、技巧に手渡される。ここで見た揮発・分配・知覚の三段階が、深掘り11「ペアリングの設計」で相性を組み立てる際の物理的な土台となる。科学(本稿)と技巧(深掘り11)は、この一点で握手する。

章末クイズ1問
  1. ジェラートの脂肪は、香りをどう抑えるのか。本稿の説明はどれか。

選ぶと、その場で答え合わせになります。外れても、消していけば道が残ります。